江戸三大飢饉|覚え方や原因。江戸時代には四大飢饉も!そもそもききんとは?

※広告

江戸三大飢饉 江戸時代の三大飢饉 言葉

長い年月を誇った江戸時代。

長かったからこそ、飢饉もいくつも発生しました。

 

今回は江戸時代の三大飢饉と呼ばれる飢饉をご紹介していきます。

広告

江戸時代の三大飢饉と覚え方

江戸時代には特に大きい飢饉と言われる「江戸三大飢饉」とされるききんがあります。

それがこの3つ。

 

  • 享保の大飢饉(1732年)
  • 天明の大飢饉(1782年~1787年)
  • 天保の大飢饉(1833年~1839年)

 

覚え方はなかなか難しいですね。

ですが、私は3つのうち、2つだけ覚えていました

享保・天明を覚えておいて、最期は享保の「保」と天明の「天」で、天保の大飢饉を思い出すことができました。

頭がこんがらがったり、3つ目の天保の大飢饉がどういう組み合わせだったか分からなくなったときは、書いてみると思い出せました。

なので、三大飢饉ですが、最初の2つを覚えておけばOKです!

 

また、年代ですが、詳しく覚えておく必要はないと思われます。

受験で「享保の大飢饉は何年に起きましたか?」というような問題はあまり見かけなくなってきています。

なので、おそらくだいたいの年代を覚えておくと大丈夫でしょう。

 

これは名前とは逆に天保の大飢饉が覚えやすいです。

天保の大飢饉のときにはあの大塩平八郎の乱が起きました。

それが1837年です。

「人は皆驚いた大塩平八郎の乱」という語呂合わせで覚えるのが楽です。

1837年=人は皆、ということですね。

この50年前が天明の大飢饉、さらに50年前が享保の大飢饉というわけです。

50年という区切りの良い年代というのが覚えやすくてありがたいです。

 

ちなみに天保の大飢饉の際に起きた大塩平八郎の乱については、こちらの記事でまとめてみました。

↓ ↓ ↓

大塩平八郎の乱|年号(何年)の覚え方、場所など。なぜ起きたか、わかりやすく解説
大塩平八郎の乱というと、日本の内乱として有名なもののひとつ。 教科書にも出てきますし、試験にもたびたび登場する事件です。 そんな大塩平八郎の乱について、分かりやすく解説していきます。 年号の覚え方。いつ起きたか。 大塩平八郎の乱が起きたのは...

大塩平八郎の乱|年号(何年)の覚え方、場所など。なぜ起きたか、わかりやすく解説

 

ぜひ合わせてチェックしてみてください!

広告

四大飢饉とは

江戸時代に起きた飢饉はもう一つ加えて、四大飢饉と呼ばれることもあります。

追加されるのが「寛永の大飢饉」(1642年~1643年)です。

寛永の大飢饉も全国的に大きな損害を出した飢饉だと言われています。

東北地方での江戸三大飢饉

東北地方では江戸三大飢饉が、一般的な三大飢饉とは別に言われることがあります。

それがこの3つ。

 

  • 宝暦の飢饉(1755年~1757年)
  • 天明の大飢饉(1782年~1787年)
  • 天保の大飢饉(1833年~1839年)

 

享保の大飢饉ではなく宝暦の飢饉が三大飢饉として言われるケースがあるということです。

なぜかというと、享保の大飢饉は西日本の被害が甚大だったききんだからですね。

東北地方では、享保の大飢饉よりも宝暦の飢饉の方が損害が大きかったようです。

なので、このように言われることもあるみたいです。

広告

享保の大飢饉

享保の大飢饉は1732年に起きました。

年明けから雨が続き、麦が熟さないまま腐るなどの損害が出ました。

その後、お米の育成が順調でしたが、梅雨が長引き冷夏に。

さらには害虫が大量発生。田んぼの水の色が変わったかと思えるほどに大発生して、米が食べ尽くされる事態に。

 

この損害は特に中国・四国・九州で大きかったようです。

なんと例年の4分の1程度しか収穫できなかったとも言われています。

 

この不作の影響で翌年の1733年には江戸で「享保の打ちこわし」が起きています。

 

ちなみにこのときの将軍は暴れん坊将軍で有名な「八代将軍徳川吉宗」でした。

江戸三大飢饉 江戸時代の三大飢饉

 

また、この飢饉をきっかけにさつまいもの栽培が広まっています。

天明の大飢饉

天明の大飢饉は享保の大飢饉の約50年後、1782年~1787年という長期にわたって起きました。

1782年末~1783年初の記録的な暖冬。

1783年4月13日には岩木山が噴火、8月3日には浅間山が噴火し、火山灰を降らせると同時に日光をさえぎり、冷害をもたらしました。

 

1770年代から悪天候や冷害で非常に疲弊していた東北地方は、さらなる追い打ちをかけられたため、大きな損害を出しました。

弘前藩などは多数の餓死者や藩からの逃亡などがあり、藩の人口が半分になったとも言われています。

 

1786年には異常乾燥と洪水まで起きました。

1787年には大坂や江戸で大きな打ちこわし事件が起きています。

天保の大飢饉

天保の大飢饉は天明の大飢饉の約50年後、1833年~1839年というなんと7年に渡る長期間で起きました。

大きな原因は1833年に起きた大雨による洪水や冷害だとされています。

またニカラグアのコシグイナ火山の噴火で気温低下も影響していると言われています。

特に米の不作が顕著で、米作に注力していた仙台藩では米の不作がそのまま大きな被害につながりました。

 

ただ、これまでの飢饉の被害によって対策が進んでいた地域もあり、全体的に餓死者は少なかったようです。

そうは言っても食糧不足は申告で、甲斐国では一国規模で百姓一揆が起き、またかの有名な大塩平八郎の乱も起きました。

ききんとは何か

そもそも「飢饉」とは何か、ということをご紹介します。

飢饉とは、

 

  • 何らかの原因によって、住民が飢餓状態になること
  • 多くの餓死者が出るほど、食糧不足になること

 

という意味です。

飢饉の原因は非常に多いです。

  • 長雨
  • 日照り
  • 火山の噴火
  • 台風
  • 地震
  • 害虫
  • 病害
  • 冷害
  • 戦争・紛争
  • 政策の失敗
  • 買い占めなどの経済行動

 

このように自然が原因の飢饉もあれば、人の行動が飢饉の原因になることもあります。

食料もエネルギーも自国でまかないたい

世界的な飢饉が起きることがあるかもしれません。

となると、食料自給率の低い日本は非常にきつい状況に陥ると思います。

どの国もいちばん大事なのは自国民です。

自国民を飢えさせてまで、日本に食料を輸出してくれるとは思えません(まぁ、日本政府は違うかもしれませんが)。

なので、日本はもっともっと第一次産業に力を入れて、第一次産業を大事にするべきだと思います。

同様にエネルギー問題も。

 

江戸時代の飢饉についてまとめていて、こんなことを思いました。

広告
タイトルとURLをコピーしました